みなさま、こんにちは。
AIの時代を迎え、私たちの暮らしは驚くほど便利になりました。けれどその一方で、物価の上昇、相次ぐ災害や戦争など、決して他人事とはいえない出来事も、私たちの日常に影を落としています。日々の暮らしの中で、ふと先の見えない不安や心配を感じることはないでしょうか。
そんな時だからこそ、少し立ち止まって、ちょっとだけ手を休めて、私と一緒に「ハープのおはなし」をしませんか。
少し長いお話になりますので、どうぞお気に入りの紅茶を一杯淹れて、ゆっくり、楽しく読んで いただけたら嬉しいです。
日ごろからハープを楽しんでいるという方、そして「これからハープをやってみようかな」、 と考えていらっしゃる方も、きっとそれぞれにハープの魅力に心を惹かれているのでは ないでしょうか。
それはハープの音色でしょうか。
それとも、その美しい形でしょうか。
私自身のことを思い出してみると、当時はハープどころか、楽器を弾くことさえあまり考えたことがありませんでした。ところが、10代の終わりに留学先のカナダで、路上で楽しそうにハープを 演奏している人を見かけ、目の前で奏でられるハープの姿と音色の美しさに、大きな衝撃を受けました。初めて「楽器を弾いてみたい」と思いました。
あれから〇十年…。
今では、ハープを提供させていただく立場となり、日々、さまざまなハープと向き合っています。 形、音色、音域、始まりの音、そして使われている木々の種類…。 知れば知るほど奥深く、まだまだ学びの日々です。 ハープと触れ合っている中で、ハープとは、どんな楽器なのか、長い歴史の中で、どのような役割を果たしてきたのか、たびたび不思議に思うことがあります。調べていくと、そこには単なる「楽器」としてのハープではなく、人の心や祈り、暮らしと深く結びついてきた、とても興味深い物語が見えてきます。
今日はそんなハープの歴史や役割について、世界最古の読み物である聖書から、読み解いていきたいと思います。「なぜ聖書?」と思われるかもしれませんが、この聖書の中に「ハープ(竪琴)」がたくさん出てくることをご存じでしょうか。とりわけ「サウルとダビデの物語」は有名で「この物語知ってるよ!」という方はたくさんいらっしゃると思います。
<イスラエルの王サウルが悪霊に取り憑かれてしまい、羊飼いの少年ダビデの弾くハープの音色に、悪霊が出て行った>という話です。
「あ、それ、ハープの体験の時に聞いた」とか「癒しの話で聞いたことがある」と思い出した方も 多いのではないでしょうか。しかし、この物語を聞いたとき「いやいや、そんなのは聖書の物語でしょ、現実的にハープを弾いただけで悪霊を追い払うなんてムリムリ…」「霊的な話はうさん臭いよ」などと一蹴されてしまうかもしれません。
「ハープは人を癒すのか?
本当に、悪霊を追い払えるのか…!」
…無論、そんな壮大なテーマを掲げることはできません(笑)。
けれども、歴史が語るハープの役割とは、いったい何だったのでしょうか。
そして、そもそも「癒し」とは何なのでしょうか。
今回は、そんな問いを胸に、聖書に記されているハープの姿をひとつの手がかりとして、歴史の流れをたどりながら、ハープが人の心にどのように関わってきたのか、そして「癒し」というものの原点には何があるのかを探っていきたいと思います。
聖書には旧約聖書と新約聖書がありますが、まずは旧約聖書から順を追って見ていきましょう。
さて、突然ですが、ここで質問です。 この「竪琴」ということば、旧約聖書にいくつくらいでてくると思われますか?
※訳語:竪琴・たてごと・琴・弦楽器・十弦の琴で、含む。
正解は70回ほど!
この数字は多いのでしょうか。それとも少ないのでしょうか。
2位の打楽器が25回ほど(タンバリン、シンバル含む)であるので竪琴の70回は非常に 多く「ダントツ1位」と言えます。
「竪琴」は数多くある楽器の中で圧倒的登場数なのです。
旧約聖書で最初に竪琴が登場するのは『創世記』4章21節です。「ユバルは琴と笛を奏する者 の先祖となった」とあり、人類初の専門職[1]について書かれています。その中で、ヤバルは 遊牧民の祖、トバルカインは鍛冶屋金属加工、そしてユバルという人が音楽や楽器に関わる人 として登場します、紀元前4500-5000年頃と言われています。
Jubal/レメクとアダの子、カインの子孫
紀元前2500年、シュメール文明のころのウル王墓(現イラク)から出土した「シュメールのリラ」をご存じでしょうか。金や瑠璃の他、音響部(サウンドボックス)の先端には、メソポタミアにおいて神聖な力や太陽神、あるいは王権の象徴であった雄牛の頭部が彫刻され、また、側面部には、動物たちがリラを奏でて宴会をしている神話的なシーンが、象嵌細工で描かれています。
古代メソポタミア王族の宝物の中にあり、世界で発見された最古の弦楽器として知られているのは有名な話です。原始的且つ小型でシンプル、ウル王の時代のリラはとても文明的で華麗に見えます。
※最古級の楽器の一つですが「最古そのもの」ではありません。
このように、音楽、芸術、そして信仰と深く結びつきながら、古代文明の中でその存在を刻んできた竪琴。そんな竪琴を、現代の私たちが最も身近に感じる聖書の物語といえば、やはり「サウルとダビデ」の物語ではないでしょうか。
ダビデが竪琴を奏でると、苦悩するサウルの心が落ち着き、主からの悪い霊が離れていった…。 「ダビデの竪琴がサウルを癒し、悪霊を追い出した」という物語。ここまでがよく知られているストーリーですが、聖書が語る物語は、ここで終わりではありません。むしろここからが本当の物語、といっても過言ではありません。 竪琴を通して描かれる「癒し」の物語は、旧約聖書の中だけで完結するものではなく、さらに続きがあるのです。
古代イスラエル王国の偉大な二人の王。「竪琴」がこの二人の王の狭間で、歴史をゆり動かしていきます。サウルとダビデの物語を入り口として、聖書が私たちに語りかける「本当の癒し」とは何か。その先にある物語を少しずつたどってみたいと思います。
この物語は、また、旧約聖書における音楽の本質をも、印象的に示している物語の一つでもあります。サウルとダビデの物語を通して「音楽」と「癒し」の関係性も合わせてみていきましょう。
余談ですが「琴」という字を眺めてみると、上には「王」のような形が二つ並び、その下に「今」が置かれています。漢字の成り立ちとして「王王」は、2つの並んだ弦楽器の象形、下部の「今」は、中国語で「キン」という音を表す記号として組み合わされたもので、中国に古くからあった古琴の形から作られた文字とされています。
これはもちろん、私個人の小さな連想に過ぎませんが…。
聖書の物語を思いながらこの字を眺めると、ふと、サウル王とダビデ王の間に琴が置かれる…、そんな素敵な偶然が重なったように感じられます。
日本語とヘブライ語の類似性が語られることもある昨今、この一文字にも、遠い歴史と文化の響きが秘められているような気がしませんか…。
さて、話を戻しまして…。サウルは、度重なる神への背信によって内面の均衡を失い「主からの悪い霊」によって、苦悩と不安にさいなまれるようになります。ダビデが竪琴を奏でるとサウルは安らぎを取り戻し[2] 、悪い霊は彼から離れました(サムエル記上16:23)。
Saul and David/ダビデがハープを弾くシーン。
ダビデが悪霊を追い出すために、特別な儀式を行ったということではなくむしろ、竪琴の音色が人間の内面や霊的な状態に深く関わり、混乱を調和へ、苦悩を安らぎへと導く力を持つことを示しています。この場面は現代の音楽療法の原型を思わせる、聖書における象徴的な出来事の一つとなっています。
この物語のバックグランドには、ダビデは単なる演奏者ではなく、神に選ばれた人物であることが 聖書に書かれています。サウルは神から見放され離れていく王、ダビデは神から選ばれた王、この対照的な両者をつないだのが「ハープ」です。
このように、ダビデが弾いてサウルを癒したり「詩編」[3]という書に、頻繁にハープが出てくることから、ハープはこの時代において、非常に重要で象徴的な楽器であった、と言えます。
歴史では、サウルとダビデの話にでてくる竪琴・琴と訳される楽器は、主にヘブライ語で キノール/キンノール(竪琴/リラ系)とか、ネベル/ネーベル(より大きく、ハープに近い) と呼ばれています。
キノール/キンノールはダビデが弾いたものとされています。
当時、すでにさまざまな種類の楽器が存在していました。 その中でも、なぜ聖書には「竪琴」が、これほど印象的に描かれているのでしょうか。
その理由として、いくつかのことが考えられます。
①ダビデが弾いた楽器であること ダビデが竪琴を奏で、サウルの苦悩を和らげました。
②詩編で頻繁に用いられていること 神への賛美や祈りとともに、竪琴が繰り返し登場します。
③神殿礼拝において重要な役割を担ったこと 竪琴は、神を賛美するための楽器として、礼拝の中でも用いられました。
そして、竪琴そのものが持つ音楽的な特性にも注目できます。
④音程を明確にコントロールできること
⑤旋律だけでなく、複数の音を同時に響かせることができること
単に「音が美しい楽器」というだけではなく、当時としては高度な楽器技術の特性から、エルサレム神殿を中心とした制度化された礼拝、ダビデやレビ人による職業的な音楽奉仕など、礼拝の一部を担う重要な構成要素であった、と考えられています。人の心に寄り添う音楽から、神への賛美まで、幅広い表現ができる楽器だったのです。
このように大変重宝されていたハープですが、それは現代においても変わらず受け継がれています。ハープの音色をきくととても癒される、と感じる方は多くいらっしゃると思いますが、わたしたちが日々何気なく使っているこの「癒される」という感覚を、みなさんはどのように捉えていらっしゃるでしょうか。
聖書にも、旧約聖書・新約聖書を通して「癒し」という言葉や、それにまつわる多くの出来事が登場します。興味深いことに、日本語では「癒す」「癒された」と表現される言葉も、英語の聖書では、その意味や状態に応じて、いくつかの異なる言葉が使われています。つまり「癒し」と一言でいっても、そこに至るまでには、さまざまな状態や段階があるのです。
そこを少し丁寧にたどってみると、私たちが普段使っている「癒し」という言葉の奥に、どのような意味が込められているのかが見えてきます。聖書における「癒し」という言葉を手がかりに、ハープと「癒し」の関係をもう少し深く見ていきましょう。
・気分転換
・気持ちが落ち着く
・不快な状態が軽くなる
・心の傷が癒される
・病気が治る
・完治する
など、私たちが日常的に「癒された」と表現していることも、その内容は一つではありません。 英語では、こうした状態や変化の違いが、文脈に応じてさまざまな言葉で表現されます。 「癒し」という言葉を、一つの意味にまとめてしまうのではなく、それぞれの言葉が持つニュアンスの違いをみていきましょう。
・気分転換→reflesh
・気持ちが落ち着く→relax
・不快な状態が軽くなる→feel better
・心の傷が癒される→heal
・完治、治癒する→heal, cure
おおよそこのように表現できるのではないでしょうか。では、悪霊に臨まれてしまったサウルの苦しみの場面を振り返ってみますと、その苦しみから解放された「癒し」とは、どのような状態だったのでしょうか。
日本では「ヒーリング」という言葉から「心を癒す」「心身を癒す」「治癒する」といった意味を思い浮かべることが多いのではないでしょうか。そう考えると、サウルがダビデの竪琴の音によって心が落ち着き、苦悩から解放されていった姿にも「ヒーリング」という言葉が重なって見えます。
ところが、聖書の記述には、サウルはダビデの弾くハープの音色に「refreshed=気分転換した」とか「feel better=気持ちが軽くなった」[4]と書かれています。更にヘブライ語[5]では「悪霊が離れる」という意味があるようですが、癒しのプロセスにおいては、かなり初期段階の「ほっとした」「気分転換になった」というような状態に留まるに至ります。
竪琴を奏でるとサウルは落ち着き、苦悩から一時的に解放されました。しかし、それは「完全な癒し」ではありませんでした。結論から言うと、神に選ばれた楽器である竪琴も、そして神に選ばれた少年ダビデが奏でる旋律も、サウルの命そのものを救うことはできませんでした。
音楽は、サウルの苦しみに寄り添い、ひとときの安らぎを与えることはできても、彼の人生そのものを変え、最後まで救うことまではできなかったのです。
「え?サウルとダビデの物語ってそんな話だったの?」と思われるかもしれません…。確かに、 もしも…、サウルがダビデによる竪琴によって回復し続け、聖書が示す治癒・完治が及び、サウルが竪琴に依存する必要がなくなっていれば、その後、立ち直って立派にイスラエルを統治したかもしれません。しかしサウルは気分転換こそできたものの、繰り返し苦しみ、絶望の中で最終的に自ら命を絶ってしまいます。
旧約聖書のサウルとダビデの物語は、単にサウルが竪琴に癒されて悪霊が出て行った、という話だけではなく、音楽が人の心に安らぎを与え、苦しみを和らげる大きな力を持つ一方で、それだけでは届かない領域もあることが示されています。
旧約聖書の世界では、象徴的で中心的な楽器として登場してきた竪琴。 人の心を慰め、神を賛美し、礼拝を支えてきた一方で、サウルの物語を通して、音楽だけでは人の命そのものを救うことはできないという限界も示してきました。
では、新約聖書では、竪琴はどうなっていくのでしょうか。 音楽では届かなかった「完全な救い」の前に、旧約聖書とは違った意味や、違った役割を持つのでしょうか。 人の心に寄り添い、人の役に立ち、 そして、サウルのような人を救うことができる…!と信じたいところです。
ところが…。
期待して新約聖書を読み進めていくと、なんと、竪琴はほとんど出てこないのです。
旧約聖書ではあれほど重要な役割を担っていた竪琴が、イエス・キリストの生涯や、弟子たちの歩みが描かれる新約の世界では、(驚くことに…!)ハープが人を癒すような出来事のみならず「竪琴」といった言葉すらほとんど出てきません。
登場するのはほんの数回程度で、表現も「キタラ」というギリシャ語のみとなります。また、登場するわずか数回のほぼすべてが、預言書と言われる「ヨハネの黙示録」に集中しています。
旧約のような賛美や、癒しに使われた記述は全くでなくなってしまいますが、しかし、それは竪琴だけに限ったことではありません。これは楽器全般の重要性が新約の世界では、相対的に下がったことを意味しています。これは単なる偶然ではなく、礼拝のあり方や信仰の中心が大きく変化したため、と考えられています。
具体的に以下の原因が考えられます。
①礼拝が外面的儀式から内面的信仰へ変化した
旧約聖書ではエルサレム神殿での礼拝が中心で、ダビデの時代には竪琴やシンバルなどの 楽器が盛んに使われました。しかし新約では、イエス・キリストによって「神は場所に縛ら れない、心と霊による礼拝が重要」(ヨハネ4:21-24)と教えられます。
②制度礼拝から共同体へ
新約時代の信者たちはローマ帝国の中でしばしば迫害を受けていました。そのため礼拝は 家庭集会(家の教会)、小規模で静かな集まり[6]が中心でした。
③専門音楽から参与型、歌うこと、が重視された
「詩と賛美と霊の歌をもって歌いなさい」(エペソ5:19、コロサイ3:16) 「霊とまことによって礼拝する」(ヨハネ4:24) 大きな楽器や華やかな演奏は礼拝の本質ではなくなり「歌=心からの賛美」が中心の礼拝に なりました。
④神殿制度から離れた
「楽器=旧約の神殿礼拝の象徴」というのは上記で見てきましたが、新約聖書ではキリストの 到来によってその制度が完成・成就した(ヘブル書10章)と理解されます。そのため楽器を必須 としない儀式的な形式から離れる流れが生まれました。
旧約聖書のサウルとダビデの物語では「refresh」や「relax」という言葉が使われ、苦悩していた サウルが、竪琴の音によって落ち着き、安らぎを取り戻す姿が描かれていました。 前述しましたが、日本語ではこれらが「癒し」という一つの言葉にまとめられます。
一方、新約聖書で「癒す」という意味の英語表現を見ていくと、 「make well」「be made whole」「heal」「cleanse」「restore」など、さまざまな表現が登場します。 そこには、病気からの回復、身体が正常な状態に戻ること、心の回復、そして霊的な回復など、 文脈に応じたさまざまな表現が見えてきます。
・身体が回復すること
・心が回復すること
・損なわれたものが元の状態へ戻ること
つまり「癒し」とは、単に症状がなくなることだけではなく、より本質的な意味で「完全なものにされる」こと、が挙げられます。新約聖書には、一つの言葉では捉えきれない、さまざまな回復の姿が描かれています。
その中で、最も多くでてくるのは「heal」です。 以下、聖句を見ていきましょう。
“…healing people who had all kinds of desease and sickness.” (あらゆる病気を癒された)マタイ 4:23
“…healed all who were sick.” (すべての病人を癒された)マタイ 8:16
“He healed all the sick.” (イエスは皆の病気を癒された)マタイ 12:15
“Jesus healed many who were sick with all kinds of deseases and drove out many demons."(イエスは大勢の病人たちを癒し、多くの悪霊を追い出した)マルコ 1:34
“…power was going out from him and healing them all." (群衆が触れて癒される)ルカ 6:19
"...let my servant be healed." (百人隊長のしもべが言葉だけで癒される)ルカ7:7
"Jesus healed..., and gave sight to many blind people." (大勢の盲人をみえるようにした)ルカ 7:21
“…be healed of your trouble.” (長血の女が癒された)マルコ 5:34
“At once the man was healed.” (ベトサダの池の病人がすぐに癒された)ヨハネ 5:8
“…he saw that he was healed…” (らい病人の自分が癒されたのを見て)ルカ 17:15
使徒たちによる癒し> “…his feet and ankles were made strong.” (足の不自由な人が癒されて立ち上がった)使徒 3:7–8
“…stretch out your hand to heal…” (癒しを行わせてください)使徒 4:30
(霊的・象徴的な癒し)
“...by his wounds you have been healed.” (その傷によってあなたがたは癒された)ペテロ第一 2:24
このように新約聖書では、キリストの「御業」と呼ばれる数々の奇跡によって多くの人が癒されました。
サウルに竪琴がもたらした「癒し」は、キリストによる癒しとは異なる意味を持つことが分かります。竪琴の音色による癒しは、英語では refreshed と表現されるように、そこには「苦しみから一時的に解放され、安らぎを得る」という意味合いがあります。 サウルの癒しが「苦しみの中にある人を、一時的な安らぎへ導くもの」であったとすれば、キリストの御業は「人そのものを、いのちへと回復するもの」。そこには、同じ「癒し」という言葉では捉えきれない深い違いがあります。また、病からの回復、苦悩からの解放、そして霊にまで及び、死者を生き返らせる御業に至るまで「失われたものが回復され、死からいのちへと移される」という、より根本的な回復が示されています。
新約聖書の原語の一つであるギリシャ語に「sōzō(σῴζω)」という言葉があります。 この言葉は基本的に「救う」「救い出す」という意味を持ちますが、文脈によっては「癒す」「健やかにする」という意味でも用いられています。病から救われることも、危険から救われることも、そして罪や滅びから救われることも、sōzōという一つの言葉によって表現されます。
これまで見てきたように「癒す」という言葉には、それぞれの言語や文化によって、さまざまな表現や回復の捉え方があります。
・日本語――さまざまな回復を「癒し」という一つの言葉で表現する。
・英語――heal、restore、save など、回復の状態によって言葉を使い分ける。
・新約聖書の原語――「癒す」と「救う」が重なり合い、身体だけではなく、人の存在そのものの回復へとつながっている。
聖書において「癒し」と「救い」は、完全に切り離されたものではないことが分かります。傷ついたものが回復され、失われたものが取り戻され、そして「死からいのちへ」と移されていく…、 その回復の中に「癒し」と「救い」が含まれています。
この違いを知ると「癒し」という言葉の奥には、単に病気が治るという以上の意味があることが 見えてきます。キリストによる「heal(癒し)」とは、傷ついた一部分を元に戻すことだけではなく、人を本来あるべきいのちへと回復させること…、そこに「癒し」と「救い」が一つにつながった聖書独自の「回復」の姿があらわれます。
もしも、サウルがダビデによる竪琴の音色で、完全な癒しを与えられていたら…、今見る歴史は、少し変わっていたかもしれません。
そう考えると、ここで一つ気になることですが、旧約聖書の時代には、新約でキリストが行ったような「heal(癒し/治癒/完治)」はなかったのでしょうか?
…いえいえ、旧約聖書にもはっきりと「heal」は出てきます。
"I am the Lord who heals you." (わたしはあなたを癒す主である)出エジプト記 15:26
"...and heals all my diseases." (わたしのすべての病を癒す)詩篇 103:3
"Heal me, O Lord, and I shall be healed." (主よ、私を癒してください)エレミヤ 17:14
このように、旧約の時代の「heal(癒し)」は、神が人を癒すため「神から人」へ、一方的に与えられるものであったことが分かります。新約の時代になって「人から人」へ与えられるようになっただけでなく、癒しの回数が増え、更に継続的な癒しが施され「救い」と一体となりました。この新約聖書での変化は、イエス・キリストの登場で大きく変わったことが分かります。
・体の癒し(病気が治る)
・心の癒し(苦しみ・傷の回復)
・霊的な癒し(神との関係の回復)
これらの癒しと、死者をよみがえらせる奇跡(Resurrection)である「命そのものの回復・復活」は、最も強力な奇跡として新約聖書に描かれています。
旧約にみられる「音楽の治療効果の描写」が新約聖書に出てこないのは、イエス・キリストの 直接の働きに代わり、完全なものがあらわれた証として、ハープや音楽が歴史の背景に退いた、という神学的な重心の移動が顕わにされています。
では、聖書からみる現代のハープや楽器の意味とはなんでしょうか。
旧約聖書では、楽器は神をほめたたえるため、喜びや感謝を表すために用いられていました。 「竪琴や琴、シンバルで主を賛美せよ」(詩編150)。あらゆる音が、神への賛美に用いられたと 考えられています。サウルとダビデの癒しのように、音楽によって人の状態が変わる、悪魔が離れる、心が癒されるなど、かつて楽器には「働き」がありました。
この「働き」が新約聖書では退き「かたち」から「本質」へ、つまり内面の心・信仰・霊へと変えられたことを見てきました。
「まことの礼拝者たちが、霊とまこと(真理)によって父を礼拝する時が来る… 神は霊であるから、礼拝する者も霊とまことによって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:23–24)
本当の癒しは神から来る、を原点に「癒し」は音楽ではなく、信仰によるものとされ、傷を治したり、死者をよみがえらせるという「完全な癒し」がある新約の時代に、そもそも楽器の立場とは、いかなるものなのでしょうか。
もちろん、これは「もうハープは必要ない」ということではありません。 音楽には、人の人生そのものを根本から変えることとは別の、かけがえのない働きがあります。 言葉では届かない、人の心の奥にそっと触れ、張りつめた心をほどき、日々の緊張を緩めてくれます。それは、人を根本から変える力とはまた違う、音楽だからこそできる働きなのかもしれません。そして今、ハープは、そのような静かな働きの中で「眠りの時」にあるのかもしれません。大きな音で何かを訴えるのではなく、眠りにつく前に灯るほんのり小さな明かりのように、静かにその音を響かせ、奏でる人も、聴く人も、ただその音の中に身をゆだねる…、その音色は、沈黙の中にあるささやきのようです。
長い歴史の中で、人の悲しみや孤独に寄り添い、慰め、心を安らかにしてきたハープが、次に訪れる時を静かに待っている、そんな「待つ」という時間こそが、ハープの物語の終わりではなく、次の響きへとつながる静かな序章なのかもしれません。
なぜ待つのか、と言いますと、旧約で起こされ中心楽器として活躍し、新約で眠ったハープは、預言書、と呼ばれる聖書最後の聖典において「天の完全な楽器」として復活を遂げるからです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
聖書をたどりながら綴ってきたハープの物語は、ここでいったん終わります。 今回は「癒し」という一つの視点から、サウルとダビデの物語を紐解いてみましたが、ここでお話ししたのは、そのほんの一部分にすぎません。聖書をもっと深く読んでいくと、王としてのサウルと、やがて王となるダビデ、そして二人の間に流れる複雑な人間模様が、より深く浮かび上がってきて、もっともっと深い物語が見えてきます。
もしご興味を持たれましたら、ぜひ一度、聖書を手に取って、この二人の物語をゆっくりと読んでみてください。きっと、今回とはまた違った景色が見えてくることと思います。
この先からは、少し趣が変わり「預言」という、これまでとはまったく違ったエピソードへと入っていきます。ここから先は、少し難しく感じられるかもしれません。
預言の話にはあまり興味がないという方は、どうぞ無理に読み進めずにお願いします。 もし「もう少し、この先も読んでみよう」と思ってくださる方は、どうぞお気に入りの紅茶をもう一杯入れ替えて、ゆっくりとお付き合いいただけましたら幸いです。
~続きです。
その最後の聖典というのは「ヨハネの黙示録」と呼ばれ、新約聖書の中で唯一の預言書です。そこには、戦争や飢餓、災害、獣、そして最後の審判など、私たちには容易に理解しがたい象徴的な光景が次々と描かれています。そのため「ヨハネの黙示録」と聞くと、どこか難しく、怖く「終末の恐ろしい預言書」という印象を抱く方も多いのではないでしょうか。
なかでもとりわけ印象深いのが「大バビロン」[7]の滅びです。華やかさと富、権力と繁栄を 象徴するかのように描かれた大バビロンは、やがて突然その姿を失い、滅びへと向かいます。
黙示録14:8 「倒れた。大バビロンが倒れた。」
黙示録18:2 「倒れた。倒れた。大バビロンが。」
14:8では「倒れた。大バビロンが倒れた。」と天使が大バビロンの倒壊を予告・宣言します。 人間が築き上げた巨大な富・権力・繁栄の世界が、最終的に崩落する、という黙示録の壮大な テーマに繋がり、更に18:2ではその倒壊がより詳しく、また天使が大きな権威をもって改めて 「倒れた。大バビロンが倒れた。」と宣言します。
リアリティをもって描かれるこれらの預言には、まだ来ていない未来の中に、すでに起こった過去として描かれています。まるでその世界を実際に目の前で見ているかのように、その情景へと導かれるようです。それこそが預言書と呼ばれる所以なのかもしれません。
未来の出来事を既に成立した事実として宣言しており、時間の概念よりも「確実性」を表していると言えます。
「最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」(21:1)
大バビロンが滅びた後「竪琴を弾く者の音が、もはや聞かれない」(18:22)と記されています。竪琴を奏でる、という「人の活動」が、もはや存在しなくなります。音楽を奏で、歌い、商い、祝宴を楽しみ、日々の暮らしを営む…。普通にありふれた、そこに生きていた人々の営みそのものが、終わりを迎えることを意味しています。
したがって、大バビロンの滅亡とは、単に壮大な建築物の崩壊だけでなく、その都市を形づくっていた人々の生活、商業、祝宴、娯楽、文化、そして繁栄に至るまで、そのすべての世界が終わりを迎えることなのです。その「終わり」を象徴的に伝えているものの一つが、竪琴の音色なのかもしれません。美しく響いていた「竪琴の音が、もう聞こえない」というのは「人の世界」そのものが終わったことを、黙示録では静かに物語っています。
「竪琴を弾く者の奏でる音、歌をうたう者の声、笛を吹く者の鳴らす音、ラッパを吹く者の鳴らす音…」。大バビロンの滅亡とともに聞かれなくなる音や声。ここで語られていることは「消えゆくのは、その竪琴を奏でる人々と、そこから生まれていた音楽や歌、そして、その音とともに営まれていた人々の暮らし」であって、”竪琴そのものの消滅”ではないのです。
「大バビロンは荒々しく投げ出される」(18:21)。このような言葉からも「地上や世界の崩壊などが描かれている預言書はやっぱり怖いな…」と思われるかもしれませんが、ヨハネの黙示録は、すでに起こった大バビロンの崩壊のあとに、新しい天地がくることを予言しています。
「新しい天と新しい地を見た」(21:1)
「わたしは万物を新しくする」(21:5)
「24人の長老が神を礼拝して言った。アーメン、ハレルヤ」(19:4)
その象徴として、更に興味深いことに、黙示録には「礼拝」の場面が何度も登場します。 そのため黙示録は「完成された礼拝の書」ととらえる研究者も少なくありません。
4章:天の礼拝
5章:子羊への礼拝
7章:大群衆の礼拝
15章:勝利した者たちの礼拝
19章:天の大賛美
21〜22章:新しい天と新しい地
このようなことから、黙示録の最後は恐ろしい破壊ではなく、回復・復活・新しい創造に向かっていることが分かります。この完成された礼拝の中にハープが、"完成された楽器”としてよみがえります。
「長老たちがおのおの竪琴を持つ」(黙示録5:8)
二十四人の長老たちがそれぞれ竪琴を携え子羊の御前にひざまずきます。旧約、新約を超えて響き続けた竪琴の音色が天上の礼拝の中で永遠の調べとなります。
「竪琴をかき鳴らす大水や雷鳴の音のよう」(黙示録14:2) 大水のように響き、雷鳴のようにとどろく天の声。その壮大な響きが竪琴をかき鳴らす音にたとえられています。「かき鳴らす」という表現がハープの静かなイメージに則わない気がしますが、これは私たちがイメージするような「小さくて繊細な音色」を表しているのではなく、無数の竪琴が同時に大音量で響き合うことで、天で竪琴が鳴り響き、賛美の壮大さが強調されているとされています。
また、黙示録15:2には「勝利した人々が神の竪琴を手にする」様子が描かれています。 旧約聖書では、竪琴はダビデの賛美や、祈りと礼拝を繋ぐ象徴的な楽器として登場していました。 黙示録15章ではその竪琴を手にしているのは王や祭司ではなく「勝利した人々」[8]とあります。
竪琴は天上において、もはや人のものではなく、所有権が神に移り、神のみの所有物となります。 旧約聖書から一貫して竪琴が登場してきた背景には、既に神に選ばれていた楽器であることを印象付けます。
このように見てきますと、黙示録は、単なる「終わり」や「破壊」の物語ではなく、すべてが終わったかのように見えるその先に、新しい始まりが描かれている希望の書と言えるかもしれません。
そして、ここにきて竪琴にも、大どんでん返しが待っています。旧約聖書では、人の心に寄り添い、慰めや安らぎをもたらしていた竪琴。やがて新約の時代に入り、地上の物語の中ではその姿が次第に遠のき、そして大バビロンの滅びとともに「竪琴を弾く者の音」さえ聞かれなくなります。まるで、長い歴史を歩んできた竪琴の物語が、ここで静かに幕を閉じたかのようです。
ところが…、物語はそこで終わりません。すべてが失われ、沈黙したかに見えたその先で、竪琴は再び姿を現します。しかもそれは、かつての地上の慰めのためだけではなく、新しくされた世界で、神を賛美するための竪琴として、再びその音を響かせるのです。消えたと思われた竪琴が、もう一度、天に響き始める。それはまさに、終わりの中に始まりがあり、沈黙の中に新しい響きが生まれる…。竪琴の物語の、思いがけない「復活」ともいえるのではないでしょうか。
ここで、少し気になる黙示録5:8を深堀していきたいと思います。
「長老たちが竪琴を持っていた」というところですが、竪琴なら「弾いていた」となるはずです。 英語でも「play」ではなく「have/hold」[9]が使われています。”持っているだけ”、というのはどういうことなのでしょうか。
そもそも、この部分だけ見ると「24人の(きっとえらい)長老が竪琴を持っている」と推測してしまいそうですが、この「24」という数字は、旧約聖書のイスラエル12部族と、新約聖書の12使徒に結び付ける考えで「長老」は「旧約と新約を通じたすべての神の民」を象徴している、という解釈もされます。
この「神の民」が天上の礼拝において竪琴を持っています。そしてこの「持つ」という意味は、演奏する、奏でる、という技術的なパフォーマンスの「行い」そのものではなく、持っていること自体の「存在」であり「勝利した人々が、完全な賛美そのものとなった」その姿(存在)をあらわしています。
「何かをする」という目的をもって生きてきた人々。その営みこそが、地上における「行い」だったのかもしれません。聖書においては「何かをする」ことから「ただ、ある」ことへと、その境界が完成します。大バビロンの滅びとともに、地上で積み重ねられてきた人々の「行い」は消え去り、それらが再びよみがえることはありません。
「何をするのか」ではなく「ただ、ある」という存在へ。
かつて「わたしはある、という者である」(出エジプト記3:14)と言われた言葉が思い出されます。
大バビロンの終焉と共に地上の喧騒が消え、古い世界が幕を閉じたその先に、再び竪琴の音が響き始めます。それは、かつて地上で人の心を慰め、苦悩を安らぎへと導いてきた竪琴が、今度は天において、その本来の響きを取り戻します。
新しい世界で竪琴は、もはや誰かを慰めるためではなく、完成された喜びの中で神を賛美するために奏でられます。その音色は、一つの楽器から生まれる小さな響きにとどまりません。「大水のような音」ともいうべき、圧倒的な響きとなって天に満ち、無数の竪琴の音が一つとなって、神への賛美を奏でることが聖書に描かれています。
竪琴は、地上で担ってきた長い役割を終えて消滅するのではなく、その役割を完成させ「完成された礼拝」へと受け継がれていきます。勝利した者たちが「神の竪琴」を手にし、永遠の賛美へと加えられる…。竪琴は神に選ばれた楽器として、天上で鳴り続けます。これが「完成された礼拝」の姿なのかもしれません。
これが長い時をかけて歩んできた竪琴の、一つの終着点であって、同時にまったく新しい世界の始まりでもあります。
「わたしは、新しい天と新しい地とを見た。」(黙示録21:1)
「見よ、わたしはすべてを新しくする。」(黙示録21:5)
大バビロンの滅亡と新しい世界。
そこでは竪琴が、この地上と同じ形を持つのか、今と同じ音色なのか、それは私たちにはわかりません。ですが、竪琴が長い歴史の中で、人の心に寄り添い、苦悩を慰め、乱れた心を安らぎへと導く音を奏でてきたのだとすれば、新しい世界ではもはや「癒しのための音」を必要とされることはありません。
なぜなら、そこには、癒されるべき傷がなく、慰められるべき悲しみもなく、安らぎへと導かなければならない苦悩もないからです。
「もはや死もなく、悲しみも、嘆きも、苦痛もない。」(21:4)
もはや、癒されなければならない苦悩そのものが存在しない…。
それが、聖書が描く「新しくされた世界」です。
竪琴は長い歴史の中で、時代を越えて、人々の心に寄り添ってきました(勿論現在も!)。 もしかすると、竪琴が長い歴史の中で担ってきた本当の役割とは、ただ人を慰めることではなく、その先にある世界へと、人の心を導くことだったのかもしれません。新しい世界において、外側にある世界だけでなく、その内なる心までもが完成へと導かれるとき、竪琴が担ってきた「癒し」という役割もまた、その使命を終えるのかもしれません。
その導きがついに成就するとき、竪琴の役割もまた、その意味を完成させる…。 「癒すための竪琴」から「神の栄光をあらわす竪琴」へと、その存在の意味を新たにします。
苦悩の只中で人を支えてきた竪琴は、苦悩そのものがなくなった世界において長い旅を終え、ついに本来あるべき場所へとたどり着きます。そしてそこから、ハープの新しい物語が始まりまるのかもしれません。
聖書とハープの物語にお付き合いくださりありがとうございました。
地と天が出会うところで、今日もハープの素敵な音色が響き渡りますように。
2026/10/23